
本日は10,000時間の話
今日は、巷でよく耳にする「1万時間」の話をしたいと思います。
私も授業でこの話をすることがありますが、皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれません。
「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」
松本零士先生(漫画家)、槇原敬之さん(ミュージシャン)という言葉がありますね。
今日は、私たちが時間とどう向き合えばいいのか、じっくりお話しします。
1万時間の法則とは?
そもそも1万時間とは何の時間かご存知ですか?
これは、プロになるために必要な時間と言われています。
茂木健一郎さん、藤原和博さん、林修さんなど、様々な著名人(教育者)の方がこの法則について紹介されていますね。
しかし「1万時間の法則」で検索すると「嘘」…?
ところが、です。
2019年頃からでしょうか、「1万時間の法則」と検索すると、予測変換で「嘘」というキーワードが出てくるようになりました。
私も、ことあるごとに「1万時間の法則」を引用していたので、「アンタ本当はどう思っているの?」と疑問に思っている方もいるかもしれません。
そこで今回は、この件についてきちんとお話ししようと思い、まとめてみました。
今日の結論:1万時間は「法則」ではなく「予想」!
いきなりですが、今日の結論です。
- 誤)「1万時間の法則」
- 正)「1万時間の予測」
そして、ものづくりをするなら、時間を味方につけましょう!ということです。
今日は、正・反・合という弁証法で話を組み立てますので、少し複雑かもしれませんが、ついてきてくださいね。
マルコム・グラッドウェルって誰?
まずは、「1万時間の法則」を有名にした人物を紹介します。
マルコム・グラッドウェル(Malcolm Gladwell)さん。イギリス生まれでカナダ出身の、ノンフィクションライター兼ジャーナリストです。
『ワシントン・ポスト』紙の記者を経て、雑誌『ニューヨーカー』のライターになりました。
彼が書いた『Outliers: The Story of Success』 (2009)という本が、日本では『天才!』というタイトルで翻訳されていますが、原題は「アウトライヤー」、つまり「規格外の人」という意味です。
この本は、環境が人の可能性や成功のチャンスにどのように影響するかを書いている、興味深い内容です。[1]
グラッドウェルが紹介した2人の研究者
マルコム・グラッドウェルさんは『Outliers: The Story of Success』の中で、2人の研究者の文献を紹介しています。
- K.アンダース・エリクソン(K. Anders Ericsson):フロリダ州立大学の心理学者。
ベルリン音楽アカデミーのバイオリン奏者を対象に、実力と練習時間の関係を調査しました。
一流のバイオリニストは、20歳までに平均で1万時間練習していることが分かったのです!
エリクソンさんたちは、ここから「何かに秀でるには、生まれ持った才能ではなく、1万時間の意図的な練習が必要だ」と結論づけました。 - ダニエル・J. レヴィティン(Daniel J. Levitin):マギル大学の神経学者。
バイオリニスト以外にも、作曲家、バスケットボール選手、小説家、チェスプレイヤーなど、様々な分野で同様の傾向があると言っています。
「1万時間より短い時間で世界的レベルに達した例を見つけた調査はない」という言葉を残しています。
グラッドウェルの結論:「1万時間はマジックナンバー」
グラッドウェルさんは、これらの研究を受けて、
「1万時間とは、偉大さを示すマジックナンバーなのだ。」
と述べています。
つまり、1万時間やれば、誰でもすごい業績を上げられる!…というような、十分条件と取れるような文章になっているのですね。
ここまでが「正」の話。
ここからは「反」の話です。
反対意見、出た!
この本の発表から5年後、反対意見が出てきました。
2014年3月、ミシガン州立大学の心理学者、デイビッド・ザカリー・ハンブリック(David Zachary Hambrick)さんが、『インテリジェンス』誌で反論しました。[2]
「音楽とチェスの名人が成功した要因のうち、練習が占める割合は、音楽で30%、チェスで34%にすぎない」という結論に至ったというのです。
しかも、練習時間にも大きなばらつきがあり、チェスの平均は約1万530時間だったのですが、832時間から2万4284時間まで幅があったとのことです!音楽家も1万~3万時間。
この差は大きいですよね。
さらに別の研究者も…
極めつけはこちらです。
2014年の6月、ケース・ウェスタン・リザーブ大学のブルック・マクナマラ(Brooke Macnamara)准教授の研究。
アンダース・エリクソン博士の実験を再現してみたのですが、同じ結果にはならなかったそうです![3]
練習時間が実力の違いに占める割合は、4分の1程度だったというのです。
もう一つ、練習量が技量に与える影響の大きさが、分野によって異なったとのことです。
- ゲーム:26%
- 音楽:21%
- スポーツ:18%
- 教育:4%
- 専門職:1%
分野によって全然違いますね。
否定的な意見の広がり方
実際「1万時間 嘘」と検索すると、そういった記事がたくさん出てきます。
そして、そういった記事が引用している文献は、だいたい
- デイビッド・ザカリー・ハンブリックさん
- ブルック・マクナマラさん
の2つです。
ここで、イノベーター理論といわれる新しい製品やサービスが普及する時に使われる図を想像してみてください。

縦軸が利用者数、横軸が時間です。
イノベーター、アーリーアダプター、アーリーマジョリティ、レイトマジョリティ、ラガードという名前がついていますが…
「1万時間の法則」に関して、この図を当てはめてみると、
イノベーターである『Outliers: The Story of Success』は2009年の発行です。
そして、2014年から、5年のタイムラグをもって、否定的な意見が浸透してきた形です。
NEWS WEEKやナショナルジオグラフィックがアーリーアダプター
ビジネス系の個人ブロガーやYOUTUBERがアーリーマジョリティ
といったところでしょうか。
私はちょうどレイトマジョリティあるいはラガードですね。
Web記事のよくある論調(Web記事あるある)
“「1万時間の法則」「嘘」” で検索されるWeb記事でよく言われていることは、
「時間だけでは語れない」
ということです。
そして、その上で、Web記事の著者が提唱する「質」を高めるテクニックや、自サイトで販売する情報商材を紹介する…というのが、全体の傾向だったりします。
では、マルコム・グラッドウェルさんの『Outliers: The Story of Success』で実験を行ったと紹介された、本家フロリダ州立大学のK.アンダース・エリクソン博士は何と言っているのでしょうか。
エリクソン博士、実は…
実はエリクソンさんも、「時間だけかければいい」とは一言も言っていないのです。
K.アンダース・エリクソンさんは、原題『Peak: Secrets from the New Science of Expertise』 (2016)という本で、1万時間についてこう述べています。[4]
- 「1万時間」は単に区切りが良かっただけで、その効果は分野によって大きく異なる。
- 1万時間は平均値。
- 大事なのは練習の内容。
具体的には、
- はっきりと定義された具体的目標がある
- 難易度が高すぎず、低すぎない適切なレベルである
- 継続的なフィードバックと改善が行われる
つまり、「質」に関して、かなり詳しく言及しているのです。
エリクソン氏は、「意図的な練習」の重要性を強調しており、これは単なる練習量ではなく、質の高い練習を継続することが重要であるという考え方です。
実は両者、同じ方向を向いている
これ、さきほど否定的な実験結果を紹介したブルック・マクナマラさんの言葉そのものなのです。
つまり、両者、相反しているように見えて、実は向いている方向は同じなのですね。
その上で大事なことは、「時間」そのものを否定しているわけではない、ということです。
このあたり、ネット記事はPV数を稼ぐためにキャッチーなタイトルが必要ですから、このような見出しを扇動的に使うことがあります。
皆さんは、そのあたりも含めて、Web文章の内容を正しく読み解くリテラシーを持ってくださいね。
「Outliers」が本当に言いたかったこと
ここからが「合」の話です。 私の私見も入ってきます。
そもそも、「Outliers」が言わんとしていたことは、
「天才とは、生まれつき才能に恵まれたわけではない。努力、環境、とりわけ機会に依存する」
ということです。
人の才能は生まれつき持って生まれたものではないということが重要なテーマで、「才能がすべて」とか、ひいては「優生思想」「遺伝子万歳」という、当時蔓延していた(実は怖い)「正」の論理に対するアンチテーゼだったのです。
それが、「1万時間」というキャッチーな言葉に引き寄せられて、独り歩きしてしまったというのが、全体の流れでしょう。
「法則」というのは、論理的に説明できる、あるいは再現性があるもので、普通は「予測」として世に問うた後、「査読」という検証がなされます。
1万時間も「法則」という言葉で世に出てしまいましたが、正確には「予測」の域でした。そして、ブルック・マクナマラさんが査読、つまり検証を行った結果、「どうやら、まだ法則とは呼べないのではないか?」という状態なのですね。
君たちが目指すのは「プロ」!
ここで改めて思い出してほしいのですが、皆さんが目指しているのは、『プロ』であって、『天才』ではないのですよね。
ですから、『天才』に太刀打ちするなどと、そんな重たいものを背負わなくていいのです!
先ほどの話でいうと、「練習すれば上達する」という言葉だけでもう十分ですし、自分がプロになるためのベンチマークとして、大体1万時間を意識する、それでよいわけです。
「自分がまだプロの域に達していないな」と思ったら、「今はまだ1000時間くらいしかやってないからかな」とか、「あとちょっとで5000時間くらいだから、登山でいうと今5合目くらいかな」とか。
あわよくば、うまいこと質を上げて、8合目くらいまでいけるといいな、というように。
そんなふうに、客観視の道具として使えれば、それで充分なのです。
プロになるためのリソース
プロになるためには、リソース(原資)が必要です。

リソースは大きく分けて2つあると考えます。
- 【不平等なリソース】
- 機会
- 財力
- 教育
- 【平等なリソース】
- 時間
- (ネットなどの)手に入りやすい情報
「才能」はあえて入れませんでしたが、これこそ「不平等なリソース」の一番グロテスクなものですよね…。

時間は最重要ファクター!
良い指導が受けられるか、良い仲間がいるか、設備などの環境…大学や専門学校で教育が受けられている皆さんは、ある意味勝ち組ですが、世の中にはもっとたくさんのリソースを持っている人もいます。
このエクストリームな不平等の中でも、同じ土俵でご飯を食べていかなければならないのです。
そのためには、持っているリソースは最大限活用したい。
特に「時間」は最重要ファクターです。どんなお金持ちでも、持っている時間は皆さんと同じですからね。
「自分は天才だから、90分の講義2秒で受け終わった、2時間の映画2秒で観終わった」という人はいませんよね?
まあ、突き詰めて言うと、時間も厳密には平等なリソースとは言えません。人によっては、アルバイトをしなければならないとか、通勤通学に時間がかかるとか。
そして何より、寿命は人それぞれです。
それでも、時間0という人はいません。持っているリソースは最大限活用したいものです。
能力 ≠ 時間、作品 ≒ 時間
そしてもう一つ、大事な話です。
先ほども言った通り、
能力 ≠ 時間
時間をかければかけるほど天才になれる、というほど単純ではありません。
しかし、「作品」という物差しで見ると、
作品 ≒ 時間
時間をかければ、それだけ多くのものが作れます。物量や情報量が作品の満足度に関わることが、往々にしてあるのです。
3DCGやエンターテインメントの世界は、時間や手間暇をかければそれだけ人を喜ばせる、感動させる確率が上がる可能性が非常に高い世界です。
「伸ばすべき能力」と「作る作品」、この2つを分けて考えること。
今まで誰も言っていなかったと思いますが、言葉にすることで、頭の中で定着します。
これからはぜひ、分けて考えてみてください。
エンタメ業界の「時間信仰」
「良い作品を作りたい!売れる作品を作りたい!そのために、自分が持っているすべての時間を差し出す所存です!」
エンターテインメント(ゲームやアニメ)業界は、このような意識の高い人たちの集まりです。
時間はかかってもいいから、少しでも良くしたい…という。
これは、エンターテインメント業界の「時間信仰」です。
悪魔との契約
しかし、これが行き過ぎると、自分だけでなく家族も犠牲にして仕事に時間をかけてしまうことがあります。

こうなると、「時間という悪魔」と契約したようなもので、本末転倒です。
皆さんの時間と能力は、皆さん自身や世界を幸せにするために使ってほしいですからね。
私自身は、かつて「時間という悪魔」と契約した自覚のある人間ですが、年を取るごとに少しずつ意識が変わり、結果的にデザイナーを辞めて今ここ(教員職)にいますので、若い君たちに「悪魔と契約してでもプロになれ!」とは言いづらいのです…。
この業界の体質自体も変わっていってほしいので、時間を短縮できる工夫は大歓迎です。
時間を大事に使いながら、効率化できる点は改善を行いつつ物を作っていくことをお勧めします。
結論:時間は君の味方
時間は君の味方!
はい、これが今日の結論です!
「1万時間、時間がすべてだ!」と思っていた人、それはそれでOKです。
「1万時間=嘘」と、否定的なイメージを持っていた人もいるかもしれません。
そういったことを全てまとめて、今日は話をしました。
その上で、時間は皆さんがプロになるために絶対必要なリソースです。
時間は常に皆さんの味方だということを考えながら、今日の話を自分なりに昇華して、日々の制作に役立ててくれたら、私はとても嬉しいです。
調査結果
Source | Author | Main Argument | Deliberate Practice |
The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance | K. Anders Ericsson et al. | 意図的な練習が専門家レベルのパフォーマンス獲得に不可欠である | 現在のスキルレベルに合わせた、適切な難易度の練習を継続すること、フィードバックと改善を繰り返すこと |
Outliers | Malcolm Gladwell | 1万時間の法則:ある分野で成功するためには、1万時間の練習が必要である | 1万時間の練習は、専門家になるための必要条件の一つであるが、才能、機会、文化的背景なども重要な要素である |
Deliberate Practice: Is that all it takes to become an expert? | David Z. Hambrick et al. | 意図的な練習は重要だが、専門家レベルのパフォーマンスを説明するのに十分ではない | ワーキングメモリなどの認知能力、練習の質、学習方法などもパフォーマンスに影響を与える |
Deliberate practice and performance in music, games, sports, education, and professions: a meta-analysis | Brooke Macnamara et al. | 意図的な練習がパフォーマンスに与える影響は、分野によって異なる | 音楽やゲームでは影響が大きいが、教育や職業では限定的 |
引用文献
Outliers (book) – Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Outliers_(book)
Outliers: The Story of Success by Malcolm Gladwell | Goodreads, https://www.goodreads.com/book/show/3228917-outliers
K. Anders Ericsson – Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/K._Anders_Ericsson
What is Deliberate Practice? — Sentio University, https://sentio.org/what-is-deliberate-practice
Deliberate Practice By Anders Ericsson: What It Is And How Can …, https://ysamphy.com/anders-ericsson-deliberate-practice/
Outliers: The Story of Success by Malcolm Gladwell, Paperback | Barnes & Noble®, https://www.barnesandnoble.com/w/outliers-malcolm-gladwell/1100030024
Outliers: The Story of Success by Malcolm Gladwell, Summary, https://theinvisiblementor.com/booked-for-mentoring-review-outliers-the-story-of-success-by-malcolm-gladwell/
Hambrick, David Z., Altmann, Erik M., Oswald, Frederick L., Meinz, Elizabeth J., Gobet, Fernand and Campitelli, Guillermo (2014) – LSE Research Online, https://eprints.lse.ac.uk/102315/1/Hambrick_et_al_Reply_to_Ericsson_1_16.pdf
Deliberate practice: Is that all it takes to become an expert? – Scott Barry Kaufman, https://scottbarrykaufman.com/wp-content/uploads/2013/05/Hambrick-et-al.-2013.pdf
Deliberate practice is necessary but not sufficient to explain individual differences in piano sight-reading skill: the role of working memory capacity – PubMed, https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/20534780/
Deliberate Practice and Performance in Music, Games, Sports, Education, and Professions: A Meta-Analysis – ResearchGate, https://www.researchgate.net/publication/263713247_Deliberate_Practice_and_Performance_in_Music_Games_Sports_Education_and_Professions_A_Meta-Analysis
Deliberate Practice and Performance in Music, Games, Sports, Education, and Professions: A Meta-Analysis – Scott Barry Kaufman, https://scottbarrykaufman.com/wp-content/uploads/2014/07/Macnamara-et-al.-2014.pdf
Deliberate practice and performance in music, games, sports, education, and professions: a meta-analysis – PubMed, https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24986855/
The Relationship Between Deliberate Practice and Performance in Sports – Case Western Reserve University, https://artscimedia.case.edu/wp-content/uploads/sites/141/2016/09/14214856/Macnamara-Moreau-Hambrick-2016.pdf
Becoming an Expert Takes More Than Practice – Association for Psychological Science, https://www.psychologicalscience.org/news/releases/becoming-an-expert-takes-more-than-practice.html
Deliberate practice: Is that all it takes to become an expert?https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0160289613000421